太平洋戦争と日本商船隊壊滅への経緯

 太平洋戦争(注1)勃発の直接の原因としては、わが国の中国侵略(日中戦争:1937年~1945年)
に対し、アメリカ、イギリスが中国からの撤兵を求め日本の経済封鎖をしたことに、日本が反発した
ことから端を発したと言われています。

 石油・資源確保の道を連合軍の経済封鎖により失ったわが国が開戦にあたってとった基本方針は、
南方の資源地帯を占領し、そこから戦争遂行と国民生活に必要な石油、鉄鋼、非鉄金属、ゴム、ボーキサイトなどを確保するというものでした。
広大な西太平洋全域に及んだ太平洋戦争の勝敗を左右するカギは、何と言っても「海上輸送の確保」でしたが、わが国海軍が、日露戦争以来伝統としてきた大艦巨砲主義の艦隊決戦を作戦の中心にし、資源確保のためにシーレーン(海上輸送路)を通う輸送船の護衛には殆ど注意を払っていなかったということが敗因の原因の一つとして挙げられるようです。
 一方、米国は、自国輸送船団護衛のために巡洋艦、駆逐艦、空母などからなる約200隻を超える艦船を準備するとともに、日本の民間商船攻撃のための潜水艦を西太平洋全域に配備し、日本のシーレーンの破壊を目論見ました。
 日本の陸海軍は、軍事優先の見地から、作戦行動に参加した徴用船こそ海軍の艦船によって護衛しましたが、前線部隊の兵力・物資の補給のため、或いはわが国生活物資の補給のためのロジスティクス(注2)を重視しない結果、資源の輸送に当たった輸送船は当初単独輸送を強いられることもあったり、船団方式を取っていても弱体な護衛で、米軍の格好の餌食になりました。
 こうして戦争が進むにつれて、潜水艦の魚雷攻撃や空爆、触雷、砲撃などにより、民間商船等の多くが失われ、その補充を図るべく「戦時標準船」という資材・工程を簡略化して大量生産した船や、更には機帆船や漁船も駆り出されましたが、そのような船もまた、ほとんどが犠牲になりました。
 南方各地が激戦の中心となっていく中で、満蒙などに温存されていた陸軍の精鋭部隊は、輸送船で占領各地に輸送されていきました。その途中で輸送船が撃沈され、多くの軍人が戦わずして海の藻屑と消えていきました。
 そして非戦闘員ながら、戦闘地域に赴き、本土と前線部隊との間の海上輸送に命がけで取り組みながら、犠牲になった6万人に上る商船・機帆船や漁船の乗組員のことも忘れてはなりません。船員の損耗率(人口比の死亡率)は43%と、軍人の損耗率(陸軍20%、海軍16%)を上回り、又、15~16歳といった年少船員の犠牲が多かったことも特筆すべきでしょう。
 以下にその喪失した民間船と乗組員(船員)の数を掲げ、謹んで哀悼の意を表したいと思います。

太平洋戦争で失われた船(除・軍用船) 7,240隻
内  官・民一般汽船 3,575隻
機帆船 (機械と帆で走る船) 2,070隻
漁 船 1,595隻
死亡した 「乗組員」(船員) 60,608名
(「戦没した船と海員の資料館」及び「日本殉職船員顕彰会」より引用)
太平洋戦争海域別戦没船員数・戦没船隻数も是非ご覧下さい。
尚、上記ページの中のグラフの各海域別の合計(民間商船)は、それぞれ戦没船員:36,400名、戦没船隻数:2,603隻となり、上の数字とは一致しま
せんが、その差は、海域などが不明のものとしてご理解下さい。

 〔注〕

  1. 太平洋戦争:第二次世界大戦の一環として、日本が米・英・中国などの連合国と戦った戦争。
  アジア地域を舞台にした戦争も含めたということを明確化するため、「アジア・太平洋戦争」或い
     は「大東亜戦争」という呼称もあります。

  2. ロジスティクス:元々「兵站」(へいたん)と訳される戦争用語で、軍隊の後方にあって、武器・
     食糧・燃料・生活物資・医療などの後方支援・後方補給などの労務全般をさす言葉ですが、
     今日ではビジネス用語として転用され、モノの流れを、調達・生産・輸送・保管・流通・販売
     までの全体的な流れとして統合し、効率化するための戦略として捉える場合の概念になって
     います。