≪山縣勝見の生涯 その7:米国海運関係者との折衝≫

ワシントンにおける山縣勝見の米国政府当局や海運連盟との交渉は昭和26年(1951) 7月17日からサンフランシスコ講和が開催された9月一杯まで続きました。はじめはどこから手をつけてよいかわからず、随分苦しみ、悩みましたが、そのうちに段々と様子もわかり、折衝する筋道も付くようになりました。
丁度運輸省からワシントンの日本大使館に出向の壺井玄剛らの協力も得て、国務省やペンタゴン(国防総省)、国会、海運連盟に通う日々が続きました。その間英国はじめ英連邦諸国や米国国会の一部、海運界からの執拗な日本海運制限論の動きの中で、終始一貫して日本海運支持の立場を守り通してくれたのは、当時対日平和条約の草案作成に当たっていたダレス大統領特使とその片腕であったアリソン公使、そして国務省で海運政策を担当していたソーグステッドらでした。
一方、当時米国海運連盟National Federation of American Shippingの会長であったフレーザー・ベイリーはその徹底した日本海運制限論で知られており、山縣もその攻略に頭を悩ませました。

9月上旬のサンフランシスコ講和会議を控え、国務省は先に2月に海運関係9団体からトルーマン大統領に送られた日本海運制約の陳情書(「山縣勝見の生涯」その4 下から8~5行目参照)への正式回答書をラスク国務次官補名で送り、その中で「日本の経済自立は米国自らの利益のためにも必要であるが、日本の地理的経済的事情は、日本海運をしてその国民経済に占める地位を決定的ならしめている。」として、米国海運界の日本海運制約の主張を真っ向から論破し、米国の採るべき道は、日本海運制限ではなくその再建育成にあることを率直・明快に表明したものでありましたが、それでも尚、米国海運関係9団体は重ねて国務省の再考を促す書簡を送りつけ、抵抗を示しました。

そんな中、マグナソン上院海運漁業分科委員会委員長の斡旋もあって、当時の副大統領でもあったバークレー上院議長が、日本海運の再建のために国会工作を続けている日本の参議院議員・運輸委員長である山縣に敬意を表して、上下両院の実力者を招いて、昼食会を開いてくれました。席上、バークレーは、「日本を再建することはアメリカの防衛上も必要であり、日本の再建は経済の再建以外になく、日本経済の再建のためには海運の再建しかない。」と強く訴えました。

又、山縣も米国海運界の主だった人々を招いて懇談会を開催しました。この会合には、対日海運問題に関係する国務、商務両省及び陸海軍並びに国会の他、海運界の代表などを網羅したものでした。


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