≪山縣勝見の生涯 その8:サンフランシスコ講和会議前夜 米国世論の好転≫

昭和26年(1951)6月3日羽田を発って以来、欧米を行脚して政府、軍部及び国会等関係筋へ日本海運再生を訴えて回った山縣でしたが、更に一ヶ月間サンフランシスコ講和会議終了後まで滞在して、全権として訪米する海運議員連盟会長の星島二郎氏とも打合わせの上、対外折衝に当たることになりました。

サンフランシスコ講和会議に先立ち、ダレス氏ら米国当局の、何としても会議を成功させ講和条約の調印にこぎつけようとする熱意と努力は並大抵のものではありませんでした。ダレス氏は、講和条約草案に少なからず不満を持つアジア諸国や尚も日本の海運・造船並びに繊維工業に一定の制限を設けようとしていた講和条約草案の共同提案国である英国を訪ねて説得工作を続けましたが、漸く参加国も決定し、講和会議を迎えんとする時、それまで会議への参加を表明して来なかったソ連が、突然、会議に参加を申し出てきたので、米国政府を大いにあわてさせました。第二次世界大戦終了後、世界は東西冷戦時代に突入し、米国には、ソ連が他の参加諸国を利用して法外な申し出をなしたり、その常套手段である「サボタージュ戦術」を用いて会議の進行を妨害したり条約の成立そのものを阻むかもしれないという警戒感があったためです。
米国はその出鼻をいち早くくじくために、8月16日モスコーに覚書を送り、「サンフランシスコ講和会議は対日講和条約の条項に関し、改めて審議を重ねようとするものではなく去る8月13日の最終案による講和条約に各国が調印するためのみの会議たるべきこと」、「その最終案決定に至る間にはソ連にも他各国と同様十分な発言の機会が与えられていたこと」を指摘してソ連をけん制しました。

米国のソ連に対しての警戒感、対決姿勢に反比例して、講和条約への如何なる妨害からも日本国民を守ろうとする米国世論は高まり、米国の対日感情はかつてない好転を見せたようです。
山縣は、講和会議開始前、いち早くサンフランシスコに到着し、宿舎のセント・フランシス・ホテルに旅装を解いた翌朝、ふと窓越しに外を見ると、正面玄関の上のポールに、翩翻(へんぽん)として日章旗が翻っているのを見つけ、狂喜します。後にそれが、講和会議に出席のために逗留した、日本の上院(参議院)議員である山縣に敬意を表するためのものと知りましたが、その後講和会議の近づくに従って、サンフランシスコの街は日本色一色と言っていいほど日の丸の旗で飾られ、道行く人々の日本人を見る目にも親愛の情が溢れていた、と山縣は述懐しています。

日本国民が一人残らず待望の主権の回復を求めて、ひたすらこれを待ったように、山縣も会議の成功を祈る気持ちで待ちました。講和条約草案の作成に当たって最後まで揉めたのが海運問題であっただけに、そして過去幾年に亘る血の滲む思いの苦闘の後に勝ち取った成果であるだけに、万一会議が難航して条約の成立を見ないか、条約草案の修正が行われるようなことがありはしないか、との不安も大きかっただけに、好意的な米国世論に救われる思いがしました。


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