≪山縣勝見の生涯 その4:日本海運制約の動きに抗して≫

対日賠償問題の好転を契機として、日本海運の再建への希望をつなぎ得た山縣たちにとって、当然に次の課題となったのは、日本商船の外航海運への復帰でした。これなくしては日本経済の復興もなく、従って日本再建の道も閉ざされるであろうとして、国民世論の後押しもありました。

山縣はじめ当時再発足した日本船主協会の首脳は、総司令部或いは政府や国会など関係方面に対し、速やかに海運の民営還元を断行して海運本来の姿に戻し、輸送力の増強を図るよう主張しました。昭和25年(1950) 1月、山縣は日本船主協会会長に選任されますが、それから間もない4月、ついに民営還元が実現するに至りました。船舶のスムーズな運航を図るため、山縣は日本海員組合と日本船主協会との間に、戦後最初の労使間労働協約を締結したほか、民営還元に関する前後処理の幾多の問題を解決します。

ところで、当時の海運問題は、その重要なものはほとんど全てが政治問題であったので、山縣は、日本船主協会会長として本当に仕事をするためには、国会に議席を持つ必要があることを痛感しました。そこで山縣は昭和25年(1950) 6月の総選挙に出馬して当選し、参議院議員となります。

同じ月に勃発した朝鮮戦争は、たちまち世界規模の船腹不足を招き、又戦争を背景として米ソの対立も深まり、米国を中心とする自由国家群の対日感情が好転しました。この結果、昭和26年(1951) 1月以降、総司令部が相次いで外国定期航路の開設を許可するに及んで、日本商船の外航進出はついに本格化するに至ったのです。
又その同じ月、昭和26年(1951) 1月、参議院運輸常任委員会委員長となっていた山縣は、「外航船舶緊急増強に関する決議案」を衆参両院に提案し、満場一致でこれを成立させました。

しかし一方対日講和条約締結が近づくと、米英の国内特に海運業界から、日本海運に対し制限条項を設けるべしという意見が台頭してきました。特に英国の態度は冷厳で、英国本国及び属領の諸港への日本商船の包括的入出港許可を保留し、又米国においても、昭和26年(1951) 2月、海運関係9団体が、日本海運(船腹)の拡充が米国の援助による見返り資金で行われていることに反対する旨の意見書をトルーマン大統領に送り、又米国太平洋岸船主協会も対日講和条約に制限規定を入れるべきとの陳情書を提出しています。

そのような折、米国の海運政策にかかわる最高の実力者で、上院の海運漁業分科委員会の委員長であったマグナソン議員が、講和条約との関連で日本海運水産関係の調査のため来日するという話が伝わりました。山縣はこの機会を最大限に生かし、米国議会と海運界を代表し、対日強硬論の急先鋒であったワーレン・マグナソン議員に日本海運再建の必要性を訴えようと準備に取りかかりました。


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