≪山縣勝見の生涯 その5:マグナソン上院議員を迎えて≫
ワーレン・マグナソン上院議員の来日を控え、山縣は先ず、彼の日本海運に対する誤解を解くには理論と数字によって反論し説得するのが一番の解決法だと考えました。特に山縣は先ず提出する書類の数字が総司令部に出したものと同じであるかどうかを確かめました。数字の食い違いは信用度に係わることだと思ったからです。同時に米国の海運界の挙げている数字の誤りも指摘してわが国経済の将来にとっての海運再建の必要性を訴えようとしました。
又、何をおいてもマグナソン議員の警戒心を解き、相互信頼の念を持ってもらうことが先決だと考え、思案に暮れていた矢先、図らずもマグナソン議員の非常に親しい日本人の友人が東京にいることを知ります。その人は森秀臣という日活の常務で、かつてマグナソン議員とはワシントン大学で机を並べた学友でした。山縣はかねて懇意の仲であった堀日活社長を通じて森と連絡を取り、日本海運のために一肌脱いでもらいたいと頼みました。こうして、森の仲介で、山縣は正式会談の前にマグナソン議員と私的に会い、お互いに心を許し合うための機会を持つことが出来、これはその後の会談の成果に大いに役立ちました。
昭和26年(1951) 4月10日、山縣たち日本船主協会首脳は帝国ホテルでマグナソン議員と前後3時間に亘り公式会談を持ちます。席上、山縣は詳細な数字を挙げて米国海運関係9団体の見解の誤謬を指摘するとともに、日本経済の自立のために海運再建が何よりも不可欠の要件であることを力説して同議員の理解と日本海運への支援を求めました。会談は極めて友好的に行われ、これによって来日前あれほど日本に批判的であったマグナソン議員の認識は改められ、平和条約では日本海運に制約の規定を設けないこと、日本海運は日本経済の自立に必要な範囲においてその拡充が許されるべきこと、といった見解を得ることが出来ました。
又、この公式会談の翌日(4月11日)、山縣は目黒の外相官邸において、マグナソン議員、シーボルト駐日米国大使、それに吉田総理とともに海運問題について種々懇談する機会を持ちました。(「創設者 山縣勝見」トップページの左上写真はこの時の写真です。)かねてよりマグナソン議員来日の意味を重く受け止め、何としても同議員の日本海運に対する理解を深め、その再建に対する日本側の堅い決意を認識せしめることが重要であると考えていた山縣は、マグナソン議員を吉田総理に会わせ、総理の口からも協力を要請してもらうなど万全を期したのでした。
山縣はその後来日したジョン・フォスター・ダレス大統領特使(後の国務長官)ともマグナソン議員を交えて会い、協力を要請しました。