財団の沿革

当財団のルーツは、江戸時代に灘(兵庫県)から江戸への清酒輸送に使われた船、樽廻船にまでさかのぼります。

江戸時代中期以降、灘西宮の銘酒「白鹿」の醸造元である辰馬家は自家の醸造酒を江戸に送るため自ら多くの樽廻船を擁し、往路には自家醸造の清酒を、復路には各地産の米・雑貨などを積んで帰港しました。

辰馬家は明治中期には醸造高日本一を誇るまでになりましたが、酒造業の発展とともに海運業も拡大して、明治18年には「辰馬回漕店 」を設立し、又海上火災保険の代理店業務にも進出しました。(この 「辰馬回漕店」の設立が現在の「山縣記念財団」発祥の礎となりました。)

その後、明治42年に「辰馬汽船合資会社」が設立され、辰馬家から海運部門が分離・独立し、大正5年には「辰馬汽船株式会社」に改組、本格的に海運業に参画しました。 この「辰馬汽船」が、のちの新日本汽船、山下新日本汽船、ナビックスラインとなり、平成11年4月商船三井と合併することとなります。

一方、火災海上保険部門は、大正8年「辰馬海上火災保険」として分離・独立し、その後「興亜火災海上保険」、「日本興亜損害保険」を経て、現在の「損害保険ジャパン日本興亜」となっています。

昭和15年6月、当時辰馬汽船の社長であった山縣勝見は、同社の常務取締役であった松本一郎とともに、将来の日本海運発展のため産学協同の理念の下に、学理と実務の統合的機関を設けることを企図して「財団法人 辰馬海事記念財団」を設立しました。

 

その後、財団の名称は、

  • 昭和21年(1946年) 財団法人 辰馬海事文化研究所
  • 昭和22年(1947年) 財団法人 海事文化研究所
  • 昭和39年(1964年) 財団法人 山縣記念財団
  • 平成24年(2012年) 一般財団法人 山縣記念財団

という変遷を経て、現在に至っております。