≪山縣勝見の生涯 その2:戦時統制下の海運・保険業界≫

昭和初頭から、既に戦時色を強めつつあった内外情勢の中で、海上輸送力と物資の確保は喫緊の課題となっていました。しかし運賃・用船料の著しい高騰で重要物資の輸送は阻害され、その蓄積を遅らせ、国内物価の騰貴を誘う要因となり、業界の早急な統制実施が要望されるようになりました。

昭和12年(1937) 7月、当時の大阪商船社長村田省蔵(後に逓信大臣などを歴任)の提唱により、海運7社による自主統制組織である「海運自治連盟」が結成されました。その目的は公正な船舶の運営を期するとともに主要物資の円滑な運送を促進することにありました。この後、わが国海運は、官民協力の統制時代を経て、同15年(1940)半ばから国家統制の時代を迎えることになります。

山縣は戦時統制経済への段階的突入に対処し、統制経済下の各委員会や団体などの役員を歴任し、又統制経済の理論家として、思慮深く行動しました。
即ち、昭和13年(1938)以降日本海運集会所発行の「海運」などを通じ、海運統制と輸送効率の向上などに関する多くの論文を発表し、海運統制の理論的理解にも務めました。

戦雲急を告げる中、経営者として忙殺される山縣でしたが、彼は一私企業の経営者に留まらず、国家産業としての海運の役割の重要性を常に認識し、その理論的理解と国民海事思想の普及に努めるために財団設立を企図します。こうして昭和15年(1940) 6月創設されたのが、辰馬海事記念財団(現在の山縣記念財団)でした。

昭和16年(1941) 12月8日わが国はついに太平洋戦争に突入します。開戦直前からほぼ休止状態に近かった遠洋航路は全く運航を停止し、その保有船腹の大半は、軍用又は国家使用船として徴用されました。翌17年(1942) 4月には船舶運営会が設立され、軍徴用船以外の船舶のほとんどすべては船会社から離れて運営会の所属となり、その管理下で運航されることになりました。又喪失船舶の増大に対処する為、政府は戦時標準型船(戦標船)を一元的に発注・建造するいわゆる造船の国家管理を実施しました。

昭和18年(1943)になると戦局の重大化に伴い、運航実務者の集約と企業統合が必要との政府の意向を受け、辰馬汽船の山縣社長は、同社を中心に海運会社の合併・株式の取得等により集約を実行しました。

一方、損保業界においても、昭和19年(1944) 2月、当初から合併協議中であった辰馬海上火災保険と大北火災海上運送保険の2社に加え、関係当局から大阪に本拠を置く神国海上火災保険と尼崎海上火災保険とも合併協議するよう要請を受け、山縣は直ちに関係者と急遽協議し、わずか2日で4社合併をまとめあげました。新会社は、興亜海上火災運送保険(株)(昭和29年(1954) 2月興亜火災海上保険(株)と改称)と称し、山縣は会長に就任します。


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