関連図書・ウェブサイトの紹介

(1)関連文献

  • 山下新日本汽船(株)「殉職者追悼録」(1982年)※
  • 日本郵船(株)「日本郵船戦時戦史 (上・下)」(1971年)※
  • 駒宮真七郎「戦時輸送船団史」(出版共同社、 1987年)
  • 駒宮真七郎「戦時船舶史」(自費出版、 1991年)
  • 第二復員省(現在の厚生労働省)史料「船舶輸送間における遭難部隊資料」
  • 関西汽船海上共済会編「関西汽船の船半世紀」
  • 全日本海員組合編「海なお深く~太平洋戦争船員の体験手記~」(新人物往来社、1986年)※
  • 野間恒 編著 「商船が語る太平洋戦争=商船三井戦時船史=」(自費出版、 2002年)※
  • 秋田博「海の昭和史~有吉義弥がみた海運日本」(日本経済新聞社、2004年)※
  • 大井田孝「戦中・戦後における喪失商船」※ (タイトルをクリックすると全文が読めます。)
    (山縣記念財団『海事交通研究』第56集 2007年)

  • 宮本三夫「太平洋戦争 喪われた日本船舶の記録」(成山堂書店2009年3月)※
    (2010年山縣勝見賞・著作賞受賞図書。著者による「拙著の背景」はこちらから)

    (※印の書籍は当財団に在庫があります。興味のおありの方は、ご連絡の上おいで頂ければ、ご覧頂けます。)

    (2)関連ウェブサイト

  • 日本殉職船員顕彰会 http://www.kenshoukai.jp/
  • 戦没した船と海員の資料館 http://www.jsu.or.jp/siryo/index.html
  • 神戸大学海事博物館 http://www.museum.maritime.kobe-u.ac.jp/
  • 海事博物館ボランティアあれこれ http://kondoh-k.at.webry.info/
  • 戦時下に喪われた日本の商船 http://homepage2.nifty.com/i-museum/index.htm
  • 戦没船を記録する会 http://www.ric.hi-ho.ne.jp/senbotusen/
  • 硝煙の海 http://www.geocities.jp/kaneojp/index.html
  • 大同海運戦時喪失船船史http://www.geocities.jp/kaneojp/03/032412.html 
  • 太平洋戦争戦没船舶の記録

    辰神丸(Tatsugami-maru)
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    辰神丸

    • D/W 10,081トン G/T 7,071トン (注)
    • 昭和14(1937)年10月 三菱重工神戸造船所にて建造
    • 遭難: 昭和17(1942)年1月 於バリクパパン(インドネシア)

     (注)D/W:重量トン G/T:総トン 貨物船の場合は通常D/Wを使用する。

     北米の屑鉄、ラングーンの米、豪州の小麦などの不定期 航路に配船されていたが、太平洋戦争開戦に際し、海軍に徴用され、社船の呉竹丸、漢口丸などとともにフィリピン、ダバオ上陸作戦に参加、続いてオランダ領ボルネオ攻略作戦にも加わった。17年1月21日社船愛媛丸、漢口丸、呉竹丸などとともに、タラカンを出港バリクパパンに向かったが、23日深夜湾内に潜んでいたオランダ潜水艦や米 駆逐艦の襲撃を受けて戦闘となり、呉竹丸などとともに撃沈され3名の殉職者を出した。第2次大戦における辰馬汽船(のちの新日本汽船、山下新日本汽船)最初の社船の犠牲であった。

    文中の呉竹丸に乗船されていて遭難された赤崎克巳氏の手記は、こちらです。

    (山下新日本汽船(株)「殉職者追悼録」(昭和57年)より引用)


     
    山月丸 (Yamazuki-maru) 
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    山月丸

    • 貨物船 D/W 9,301トン G/T 6,439トン
    • 昭和13(1938)年2月 三菱重工横浜造船所にて建造
    • 遭難:昭和17(1942)年11月 於ガダルカナル島

     昭和12年から13年にかけて、相次いで建造されたニューヨーク定期航路用の5隻の内の1隻だが、昭和16(1941)年半ばになると、日米関係が悪化し、パナマ運河通航拒否に合い南米ホーン岬を迂回せざるを得なくなった。
     ほどなくニューヨーク航路は中止の状態となり、以後は陸軍徴用船として南方諸地域の航海に従事し 、昭和16年12月20日、フィリピン、ホロ島の攻略に参加した。
     翌昭和17年2月18日香港を出て、3月1日ジャワ上陸作戦に加わり、17年11月、僚船山浦丸ほか11隻をもって船団を構成し、ガダルカナル島第2次強行輸送作戦に参加した。
     ガダルカナル島へ向かう途中、第3次ソロモン海戦が起こったので、一旦引き返したが再度ガダルカナル島に向かった。ソロモン海戦では圧倒的に優勢な敵の機動力の前になすすべくもなく、その後船団は敵の大編隊に襲われて、護衛艦はじめ各船は必死の防戦に努めたが、たちまち7隻が血祭りにあげられ、山月丸、山浦丸など4隻が残ったが、敵に退路を絶たれ、各々個別にガダルカナル島に向け決死の突入を敢行、陸岸に乗り上げた。 乗組員は陸上に逃れたが、待っていたのは飢餓と病気と連日の激しい空襲であり、互いに励ましあって78日間、約半数の人々(43名)は再び内地の土を踏むことは出来なかった。
     尚、その間ほぼ行動をともにした僚船山浦丸も同様の運命を辿り、45名の殉職者を出した。

    (山下新日本汽船(株)「殉職者追悼録」(昭和57年)より引用)


     
    高津丸 (Kozu-maru)
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    高津丸

    • 上陸用舟艇母船 D/W 3,840トン G/T 5,656トン
    • 昭和19(1944)年1月 浦賀船渠渠・浦賀にて建造
    • 遭難: 昭和19(1944)年11月 於フィリピン・レイテ島オルモック湾

     高津丸の生い立ちは、まさに戦争に参加するために生まれてきたようなものであった。 通常、船が竣工するまで工務の監督の下、会社がその進行状況を把握し、すべてのことを熟知しているのが当然のことであったが、本船は秘密裡に建造され、乗組員以外の当社(山下汽船)関係者は誰も、どんな船が建造されているか知らなかった。
     高射砲や機銃で重装備された軍艦のような外観と、1万1千馬力のタービンエンジン、21ノットの高速、船腹に上陸用舟艇を満載して、後部扉を開いて飛び出せるような構造をもっていて、部隊、弾薬、糧秣輸送用の陸軍御用船であった。
     竣工後、門司/釜山のピストン航海に従事して4航海を平穏無事に過ごしたが、昭和19年10月、米軍がレイテ島に上陸した時点から苛酷な運命が課せられることになった。すなわち、上海において兵員、弾薬、糧秣などを積載してマニラに到着したのが10月27日であったが、レイテ島の攻防戦が急を告げていたため、乗船部隊がそのままレイテ島の増援に向けられることになった。
     この輸送作戦を「多号作戦」と称し、特攻船団で、高津丸の加わった航海は第2次輸送作戦であった。10月31日プーラ出帆、能登丸、香椎丸、金華丸の四隻で船団を組み、激しい空襲を受けつつ、11月1日レイテ島オルモック湾に突入、揚陸後マニラに帰港した (この航海で能登丸が撃沈された)。
     引き続いて第4次輸送作戦は残った3隻で決行された。この間、日を追って戦局が悪化していった。11月8日マニラを出港した船団は、9日17時、オルモック湾口で猛爆を受けたが、ようやく18時30分湾内に入り、兵員の揚陸に夜を徹して努め、急ぎ10日朝マニラに向け抜錨した。
     出港して1時間後、再び米空軍の大編隊に襲われ、各船必死の対空砲火も空しく本船、香椎丸、護衛艦11号が撃沈された。
    そして、唯一人の生存者を残し全員殉職を遂げた。一度に104名の犠牲者を出した船は山下汽船運航船舶では他に例をみない。

    (山下新日本汽船(株)「殉職者追悼録」(昭和57年)より引用)


     

     辰鳩丸と「ヒ86船団」の悲劇 (Tatsuhato-maru)

    辰鳩丸

    • 貨物船 D/W 8,945トン G/T 5,396トン
    • 昭和18(1943)年9月 日本鋼管・鶴見にて建造
    • 遭難: 昭和20(1945)年1月 於仏印(現ベトナム)東岸

     大戦も末期になると、日本近海の制空権、制海権はほぼ連合軍の手に握られ、日本への海上輸送路は寸断され、南方から重油や生ゴム、ボーキサイトなどの戦略物資を満載して本土へ向かう航海は決死行であった。船舶は、護衛艦の護衛の下に船団を組んで航行するのが常であったが、その多くは構成隻数も少なく、護衛も脆弱であり、連合軍の格好の標的となった。
     昭和20年(1945)1月12日、印度支那半島東岸に於て、「ヒ86船団」(タンカー4隻、貨物船6隻、護衛艦 (「香椎」他海防艦5隻)は、南方の石油、重要物資を満載して帰国途次、米国の主力機動部隊艦載機の反復攻撃を受け、終日に及ぶ防戦も空しく、海防艦3隻を残し、全滅した。  
     船団の護衛に当たったのは、昭和19年(1944)11月19日に発足し、船団護衛専門に初めて編成された第101戦隊で、旗艦である練習巡洋艦・香椎の他に海防艦6隻からなる戦隊だった。その初陣航海は12月下旬に門司を出港、南方向け船団を護衛して、米航空機や潜水艦の攻撃をかわしながら、昭和20年1月5日 にサイゴンに漸く到着していたが、途中で1隻が脱落し、合計6隻で、サイゴンから門司へ向けての帰途、「ヒ86」船団の護衛に当たることになっていた。 
     辰鳩丸は、 昭和19年(1944)12月30日、ボーキサイトを満船、捕虜約500名を乗せて、船団とともに昭南(シンガポール)を出港した。既に制海空権は敵の手中に帰し、危険な航海が予想されたため捕虜に格別の給食を行って、船橋付近に土嚢を築かせた。
     護衛艦の到着を待ち、1945年1月9日12:00、船団はサンジャックを出発した。辰鳩丸はサイゴンにて捕虜を陸揚げ、再び船団とともに、カムラン湾、キノン湾と仮泊を重ね、20年1月12日早朝キノン湾を出て漸く日本への帰路についた。しかし、ほどなく午前8時40分敵機動部隊から発進した2機の艦載像が来襲し、各船戦闘配置についた。敵の攻撃は反復するたびに機数を増し船団は散りじりになり、次々と敵機の餌食になって行った。
     攻撃の小休止が十分、昼食時間を除く日没まで、敵機が頭上に舞っていた。最後まで残った辰鳩丸は、積み上げた土嚢のお蔭で、船体に蜂の巣のように穴をあけられつつ、戦っていたが、船尾に搭載していた爆雷が爆発、船尾付近一帯に火災が発生したため、船長は、最早これまでと陸岸に乗り上げを決意し、坐礁させた。夕闇迫った6時頃のことであった。乗組員に7名の戦死者を出し、陸上に逃れた生存者は、迎えの護衛艦に救われ、シンガポールに戻った。
     その後残務整理のため船長以下5名が残留者となり、入院中の三等航海士外1名を除いた本船乗組員は、日本郵船の阿波丸に便乗し帰還の途中、台湾海峡烏垢嘆の南西24マイルの地点で米潜水艦により撃沈され、全員不帰の客となった。昭和20年4月1日午後11時30分頃のことであった。残留者は終戦後無事帰還することができた。

    辰鳩丸に乗船されていて遭難された小松勝利氏の手記は、こちらです。

    (山下新日本汽船(株)「殉職者追悼録」(昭和57年)より引用)

     

    その他関連サイト

    太平洋戦争と日本商船隊壊滅への経緯

     太平洋戦争(注1)勃発の直接の原因としては、わが国の中国侵略(日中戦争:1937年~1945年)
    に対し、アメリカ、イギリスが中国からの撤兵を求め日本の経済封鎖をしたことに、日本が反発した
    ことから端を発したと言われています。

     石油・資源確保の道を連合軍の経済封鎖により失ったわが国が開戦にあたってとった基本方針は、
    南方の資源地帯を占領し、そこから戦争遂行と国民生活に必要な石油、鉄鋼、非鉄金属、ゴム、ボーキサイトなどを確保するというものでした。
    広大な西太平洋全域に及んだ太平洋戦争の勝敗を左右するカギは、何と言っても「海上輸送の確保」でしたが、わが国海軍が、日露戦争以来伝統としてきた大艦巨砲主義の艦隊決戦を作戦の中心にし、資源確保のためにシーレーン(海上輸送路)を通う輸送船の護衛には殆ど注意を払っていなかったということが敗因の原因の一つとして挙げられるようです。
     一方、米国は、自国輸送船団護衛のために巡洋艦、駆逐艦、空母などからなる約200隻を超える艦船を準備するとともに、日本の民間商船攻撃のための潜水艦を西太平洋全域に配備し、日本のシーレーンの破壊を目論見ました。
     日本の陸海軍は、軍事優先の見地から、作戦行動に参加した徴用船こそ海軍の艦船によって護衛しましたが、前線部隊の兵力・物資の補給のため、或いはわが国生活物資の補給のためのロジスティクス(注2)を重視しない結果、資源の輸送に当たった輸送船は当初単独輸送を強いられることもあったり、船団方式を取っていても弱体な護衛で、米軍の格好の餌食になりました。
     こうして戦争が進むにつれて、潜水艦の魚雷攻撃や空爆、触雷、砲撃などにより、民間商船等の多くが失われ、その補充を図るべく「戦時標準船」という資材・工程を簡略化して大量生産した船や、更には機帆船や漁船も駆り出されましたが、そのような船もまた、ほとんどが犠牲になりました。
     南方各地が激戦の中心となっていく中で、満蒙などに温存されていた陸軍の精鋭部隊は、輸送船で占領各地に輸送されていきました。その途中で輸送船が撃沈され、多くの軍人が戦わずして海の藻屑と消えていきました。
     そして非戦闘員ながら、戦闘地域に赴き、本土と前線部隊との間の海上輸送に命がけで取り組みながら、犠牲になった6万人に上る商船・機帆船や漁船の乗組員のことも忘れてはなりません。船員の損耗率(人口比の死亡率)は43%と、軍人の損耗率(陸軍20%、海軍16%)を上回り、又、15~16歳といった年少船員の犠牲が多かったことも特筆すべきでしょう。
     以下にその喪失した民間船と乗組員(船員)の数を掲げ、謹んで哀悼の意を表したいと思います。

    太平洋戦争で失われた船(除・軍用船) 7,240隻
    内  官・民一般汽船 3,575隻
    機帆船 (機械と帆で走る船) 2,070隻
    漁 船 1,595隻
    死亡した 「乗組員」(船員) 60,608名
    (「戦没した船と海員の資料館」及び「日本殉職船員顕彰会」より引用)
    太平洋戦争海域別戦没船員数・戦没船隻数も是非ご覧下さい。
    尚、上記ページの中のグラフの各海域別の合計(民間商船)は、それぞれ戦没船員:36,400名、戦没船隻数:2,603隻となり、上の数字とは一致しま
    せんが、その差は、海域などが不明のものとしてご理解下さい。

     〔注〕

      1. 太平洋戦争:第二次世界大戦の一環として、日本が米・英・中国などの連合国と戦った戦争。
      アジア地域を舞台にした戦争も含めたということを明確化するため、「アジア・太平洋戦争」或い
         は「大東亜戦争」という呼称もあります。

      2. ロジスティクス:元々「兵站」(へいたん)と訳される戦争用語で、軍隊の後方にあって、武器・
         食糧・燃料・生活物資・医療などの後方支援・後方補給などの労務全般をさす言葉ですが、
         今日ではビジネス用語として転用され、モノの流れを、調達・生産・輸送・保管・流通・販売
         までの全体的な流れとして統合し、効率化するための戦略として捉える場合の概念になって
         います。  

    太平洋戦争海域別戦没船員数・戦没船隻数

    地図

      ※ 地図をクリックすると大きくなります。 印刷される場合は、ページ設定で印刷の向きを横向きにし、上下の余白を最小にしてから印刷して下さい。

    「2009年山縣勝見賞」贈呈式開催(7月15日)

    7月15日(水)「2009年山縣勝見賞」の受賞者3名をお招きし、海運クラブにて贈呈式を開催しました。
    受賞者との記念写真をアップしました。

    2009.jpg

    左から 北見俊郎氏(功労賞)、逸見真氏(論文賞)、中村眞澄氏(著作賞)及び当財団 宮都理事長(写真クリックで拡大します)

    尚、受賞内容は以下の通りです。

    ・著作賞(賞金30万円)
    商船三井海法ゼミナール編、中村眞澄氏監修
    『最新海事判例評釈第Ⅲ巻』
    (早稲田大学海法研究所出版、2008年3月発行)

    受賞者(中村眞澄氏)略歴:
    1927年東京都生まれ
    1953年早稲田大学法学部卒業
    早稲田大学法学部助手、講師、助教授を経て、
    早稲田大学法学部教授。現在名誉教授。
    受賞理由:海法に関するあらゆる問題を詳細かつ学術的に集大成したもので、
    分析手法や分析結果などの点で優れていること。

    ・論文賞(賞金20万円) 
    逸見真氏執筆『便宜置籍船論』(信山社、2006年12月発行)

    受賞者略歴:
    1960年埼玉県生まれ
    1985年東京商船大学商船学部航海学科卒業
    2001年筑波大学大学院経営政策科学研究科企業法学専攻課程修了
    2006年筑波大学大学院ビジネス科学研究科(博士後記課程)
    企業科学専攻課程(企業法コース)修了
    新和海運船長を経て、2009年4月より独立行政法人海技大学校講師
    受賞理由:便宜置籍船に関する現状やそれにかかわる問題点などについて様々な角度
    から詳細に分析するとともに、船舶国籍の有すべき実質性とは何かについて克明に論述 し、便宜置籍船の本質を解明した優れた論文であること。

    ・功労賞(賞金20万円)
    北見俊郎氏(青山学院大学名誉教授)

    受賞者略歴:
    1924年 神奈川県生まれ
    1954年立教大学大学院卒業
    青山学院大学、静岡学院大学、関東学院大学各教授を経て
    現在青山学院大学名誉教授、北見港湾総合研究所代表
    受賞理由:日本の港湾経済研究において港湾産業と雇用の前近代性の構造に注目し、 
    これを分析し、港湾の近代化を主張することで研究業績を磐石なものとするとともに、 日本港湾経済学会の創設・発展に大きく貢献し、後進の指導や業界人に対する啓蒙にも 力を注いできたこと。